2008年01月16日

新聞記事から、教育ということ・つれづれ+二十祭(長文)

今日休日のつれづれに、新聞を読んでいたら、面白い記事を見つけました。

経済教室『脳の特性から経済を解明』(大竹文雄・阪大教授)という文章です。

「伝統的な経済学は、人間は合理的に行動すると考えてきた。しかし、
合理的には必ずしも行動していないのは、私たち自身がよく知っている。」

「人間の意思決定や行動は、脳での情報処理の結果である。人間の非合理性も、
脳の特性に基づいているはずだ。」

「将来より今を極端に重視したり、利益よりも感情を重視したりする人間の特性が、
脳の仕組みに起因するなら、経済学の構築も社会の仕組みもそれを前提に考える
必要性が高まる。」

ということで、意思決定の選択前後の脳活動をfMRIで調べたりして、
研究をした成果がいくつも書いてあるのですが、その次に書いてあることが、
私はとても面白いと思いました。

すなわち、「経済学的にも神経生物学的にも、将来の労働力を強化し
生活の質を高めるための最も効率的な戦略は、恵まれない子どもたちの
幼少期の境遇を改善することだ」との主張が、2000年にノーベル経済学賞を
受賞した米シカゴ大のヘックマン教授が神経生物学者のクヌーズセン米
スタンフォード大教授との2006年の米国科学アカデミー紀要誌での
共同論文の中でなされているということ。

これは、ぺりー就学前計画という実験的政策(のフォローアップ研究?)だそうで、
3-4歳のアフリカ系米国人の恵まれない子どもたちに行った午前中の
学校での教育と午後から先生の家庭訪問を含む二年間の介入実験で、
同じような境遇にある子どもたち同士を40歳になった時点で比較すると、
介入実験を受けたグループは、高校卒業の比率、所得、持ち家比率が高く、
婚外子を持つ比率、生活保護需給率、逮捕者の比率が低かったということ。

これは、介入を受けた子どもたちが高い学習意欲をもったことが原因だそうで、
ペリー計画の投資収益率は、15-17%という非常に高いものになるのだと。

一方、学校教育段階になって恵まれない子どもたちに援助をしても、
就学以前の家庭環境が悪いとあまり効果が無いことも明らかにされている
そうです。(日経新聞 2008年1月14日 朝刊 18面)

これって、何か、障害児の教育で、子どもの時にしっかり適切な行動と
社会的に許されない行動を教え、また、自尊感情を身につけさせることが
できれば、大きくなって、周囲も本人もとっても楽、ということと
なんか、似ているなぁ、とか、更に、自閉症の場合、まず乳幼児期にしっかり
介入して、自分以外の周囲に目を向けさせたり、人と人とはコミュニケーション
してるんだぞー、言葉で他人とかかわることができるんだぁということを
理解させてやることができれば、それができていない場合と比べると、
スタートから全然楽、ていうことと似ているなぁ、と思ったり。

フィンランドの学校教育のことを例に出すまでもなく、一番しんどいところに
しっかりとケアすることで、全体の底上げが確実にできるってことを、
どうして、でも、今の私達の国では、みんな重要視していないのでしょう。

米国なら、もしこんな成果が上がってる、て分かったら、実行することも
できるかもしれない。でも、日本は、もし米国がやって成果がぐっと出たら、
慌ててまねするくらいがせきのやまだ、と思ってしまう。情けないなぁ。

今私達の社会では、お金持ちがいい学校に行ける、お金がなければ、
頭がよくてもいい学校に行けない、ということで、お金お金、子どものために
お金確保しなければ、みたいなところがあって、やだなぁと思ってます。

うちの場合、障害児なんで、最初からそんなレースから一抜けしてるんで
楽チンといえば楽チン。

でも、本当は、お金持ちだけしかいい学校に行って、結果お金持ちの
子どもだけが政治や経済や社会のトップにいる、ということでは、
多様性というところからいっても、先細りとなるのでしょう。

昔の日本、大正とか明治とかでも、貧富の差はものすごくあったけど、
一方で、「見込みのある若者」に対しては、村の有力者が村のため、
というところで、お金を出して、大学に入れる、みたいなところが
あったと思います。それが、バイパスとなって、「生きのいい若いの」
をどんどん中央に供給していたのですよね。(ちょっと言い方が下品で
すみません)それ以前の時代には、地域社会というものがとても
堅固にできていた(それはそれで悪いところもいっぱい)のでしょう。
だから、その中で人々は生き、指導者も生まれ、その人に、人々は
ついていっていたのでしょうか。

でも、今はもう、人々の間に共同体の意識がなくなって、個々人が
家庭という枠の中にこもって、もう、外を見ようとしない。

「格差社会」が近づいている、といえば、自分の子や家族をまもろうとする
だけ、自分ははみ出さないように、ちょっとでもいいところの中に入って
いられるように、しがみついている感じ。

つまり、行動や言動がすべて、「不安」から生まれている。

でも、不安から生まれる行動は、不毛なのです。

「愛」から生まれた行動であれば、どのような花でも咲かせる事が
できるだろうに。

なんて。つれづれに、そんなことを、考えています。

自分の行動が、愛から生まれているのか。不安や恐怖から
生まれているのではないのか。

時々気づいた時にチェックしています。それくらいなら、自分でも
できそう。そして、そんなところから、周囲を変えていくことが
できるのではないかと思っています。

とはいえ、自閉症の息子のやることなすことに、いちいちきいきい
気を立てて怒鳴っているのですが。

つらつらと、そんなことを考えていた成人の日です。

岡東中央公園で開かれていた、二十祭(にじゅっさい)にも、子どもらと
一緒に1時間ほど行ってきました。よかったです。二十歳の若者達も
いい感じでした。同じ場にいるということで、何か、共感することが
できました。とれぶりんか音楽部のスマイルや、西谷まさる君の音楽も
すばらしくよかったです。
posted by とれぶりんか at 23:26| Comment(0) | TrackBack(1) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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